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磐越西線(郡山-会津若松,1225M)

令和4年11月23日 勤労感謝の日、上野駅から東北新幹線に乗り郡山駅で降りた。

福島駅寄りの在来線連絡改札口を通り1番線へ降りる。 待合室の隣りにあるNewDaysが無人化されセルフレジだけとなっていた、しばらく様子を見ていると入っても店員が居ないためそのまま出て行ってしまう方、商品を手に取ったがセルフレジをどのようにして良いかわからず品物を戻して買わずに出て行かれる方などがおられ、買われた方は旅行鞄を曳いていた女性おひとりだった。 平日であれば、学生や通勤客などがSuicaで買い物をするのかもしれないが、将来は撤去され待合室に編入されるような気がした。

発車まではかなり時間があるが、会津若松駅からの1226Mが8時48分定刻に到着し、車内清掃がないので到着後すぐ乗車できた。 今回の1225M・E721系電車は会津若松駅←[クモハ721-13][クハ720-13]→郡山駅で仙台車両センター所属、つまり仙セン。 郡山と若松の間は、高速バスと競合しており料金や利便性などはバスが有利なようだ、しかし高速バスへの対抗からか磐越西線のE721系にはボックスシートもあり、会津若松まで乗り通しても楽である。 ワンマン運転なので2両編成、4人掛けボックスシートにそれぞれ一人とドア横に数人が乗車して9時15分郡山駅を定刻に発車した。 郡山駅と会津若松駅の間は通勤通学時間帯や観光シーズンにはかなり混みあい座れないこともあるが今日は祝日なので空いている。 ちなみに、指定席のある快速は4両編成で、普通列車も4両編成で走る事の方が多い。 乗車した車両には、地元の方と思える初老の男性と高校生くらいの男の子以外は、小さな旅行鞄や土産袋を持っているので帰省される方々と見受けられる若い方が数人だけ、しかもだれにも話しをする相手がいないので電車の走行音だけが聞こえる静かな旅立ちである。

郡山駅を出た会津若松駅行き1225Mは、東北本線の線路とは別線で一番西側を北上するが、右手の東北本線の向こうに磐越東線用キハ110系気動車が見える。 やがて新幹線高架をくぐり西へ向きを変え、しばらく市街地を走り奥羽大学が右手に見えると 郡山富田駅(単式)に9時19分着、無人駅だが郡山駅を出て最初の駅なので全てのドアが開き6人が降車された、Suicaか切符を持たないで乗車されることは無いとの判断だろう、下車客のうち3人がICカードをタッチして改札口を出て行かれた。 喜久田駅(相対式)9時24分着、列車のほとんどが駅舎のある1番線に発着するが 2番線に快速あいづ2号郡山駅行き3232Mが先着していて、こちらの到着を待って発車していった、最前方のドアのみ開いたが降車客はなく乗車客もなかった。 安子ヶ島駅(相対式)9時28分着、ここも駅舎側1番線が使われ2番線は列車交換時のみ使われる、ここでは降車客が一人いらした。 1225Mは時速88キロで快調に走り磐梯熱海駅に9時32着、この駅では列車交換が行われないダイヤになったが駅舎側1番線ではなく2番線に着いた、1番線は分岐の速度制限がきついので下りは2番線なのだろうか、その2番線は島式だったが3番線は廃止されて相対式となっている、有人駅なので全てのドアが開き3人降車され3人が乗車されたがそのうち二人はご夫婦のようで、乗客が全員一人旅ということではなくなった。 喜久田駅と安子ヶ島駅そしてここ磐梯熱海駅にも跨線橋が設置されている。 ここを過ぎると山々が迫りきて、旧中山宿駅を通過し現在の中山宿駅(単式)に9時38分着、元の中山宿駅は郡山駅から来て頭端式2面3線に停車し、タブレットを受けて後退しスイッチバックを登り、再び会津若松駅方面へ進む Z字型になっていたが やがてこの駅に停まらない列車はスイッチバックせずに登れるようになり、中山宿駅を眼下に見下ろして通過していくようになり、駅は元の位置よりも会津若松駅寄りに移設されたが、今回は乗降客なしであった。

右に電化前まで使われていたという古いトンネルを見ながら、こちらも短いトンネルを通過する。 左に国道49号線が近づいてきて、かなり登ったところで、右側に沼上水力発電所が見える。 猪苗代湖の湖水を地下水路で通して発電しているので、猪苗代湖の水面はあの導水管よりも高いことになる、よってまだまだ登りが続く。 次のトンネルで峠を登り切り、出るとすぐ沼上信号場となるが列車交換がないので通過し、上戸駅(単式)9時46分着、岩越鉄道として開業した時は郡山駅から来てこの駅が終着駅だったが列車交換設備も撤去され今は小さい駅になってしまっている。 猪苗代湖畔駅(単式)にはもう何年も停車する列車はなく、1226Mもそのまま通過して、関戸駅(相対式)9時50分着、駅舎前1番線に停車し最前方のドアだけが開くが、上戸駅に続きこの駅でも乗降客はいなかった、この駅は跨線橋がなく構内踏切で2番線へ渡る。

磐越道をくぐるが、この磐越道のルートがもともと若松と二本松を結ぶ街道があり楊枝峠と呼ばれていて中山峠よりも距離は短いが険しいのだろう、鉄道と国道は南に峠を迂回している。 そして川桁駅(相対式)9時53分着、磐梯急行電鉄という軌間762mmの軽便鉄道が沼尻駅まで硫黄輸送のためにこの駅から出ていた。 コッペルなどの蒸気機関車もあったようだが、猪苗代町にDC121ディーゼル機関車が保存されており、HOナローの模型でも有名である。 石油精製で出来る硫黄に価格で負けてしまい、ついに急行も電車も走らないまま廃止となったようだ、このような歴史のある川桁駅から2人乗車。 ここから、磐梯山を右手に眺めながら田んぼの中を快走して猪苗代駅(相対式)に9時59着。 列車交換のため2番線に到着し駅舎前1番線に到着する上り列車を待つ、駅員が居るので全てのドアが利用可能となり 1人降車され2人乗車された。 この猪苗代駅は郡山駅と標高差がおよそ300メートルあり、そのため中山宿駅ではスイッチバック式で高度を稼いでいたわけだが、郡山駅から猪苗代駅まではかなりの距離があることが幸いして少しづつ登り最後に中山峠を登り切れば、本州の脊梁山脈の1つである磐梯山の山麓へと出れる。 ここまでは中山宿駅から上戸駅まで国道49号線にそったS字とトンネル内でのS字の2つのS字カーブ程度で登っているが、次の翁島駅から会津若松駅までも標高差は約300メートルと同じくらいだが距離が短い為にかなりの勾配区間となる、そのため震災時の燃料輸送でDD51が登れなくなったのは記憶に新しい。

翁島駅(相対式)10時03分着、乗降なし。 皇室のため貴賓室が駅舎にあったことなど感じさせない静かな駅には跨線橋もなかった。 ここから会津若松駅まで直線距離で10キロと少しで約300メートル下る、そのために右へ左へと曲がりくねった路線となるが かつてED77が牽く客車列車でここを通るたび 右に左に赤い機関車が見え隠れしたことを思いだす。 時速65キロで下りながら 列車交換がなくなった更科信号場を通過する、駅間の距離が開いているために作られた信号場なのだろうが今は列車交換は行われない。 島式ホームの磐梯町駅10時13分着、この駅は地下通路で駅舎とつながっている為にホームが文字通り島のようにぽっかり浮いているようだ、積雪時の夜には雪原の真ん中で停車しているようでもあるがまだ雪の季節ではなく昼間なので眼下に駅舎が見える。 特急あいづは停まらなかったが、今の快速あいづは停車する磐梯町駅だが昔はここから発電所建設のために軽便鉄道が牽かれていたらしいが発電所は残っていても軽便鉄道は残っていない。 若松へ向かうのだろう、いろいろな年代の方々が乗ってきてにぎやかになった。 右に左にと曲がりながら下り、東長原駅に10時20分着、この駅は1番線と2番線が独立しているが向き合っていないので相対式ではなく単式2面なのは、昭和電工社が費用負担をして通勤の為の駅を作らせたことから昭和電工社に背中を向けないようにと3番線を廃止する時に3番線を2番線としたのかというのは考えすぎか、河東町から今は会津若松市となったこの駅からお一人乗車されてきた。 さらに下ると広田駅(相対式)に10時24分着。 3番線が廃止され島式から2番線だけが残った単式になっているが、その3番線だった先に貨物線が2本残っている。 駅舎が火事で焼けた少し前までは貨物列車が来ていた、セメントの工場があったのでタキだったのだろうか、その当時を知らないだろう高校生が6人ほど乗ってきたて、先着していた上り列車が出て行ったあとこちらも発車した、高校生たちは座らないのでどのボックスシートも一人か一組づつしか乗っておらず、快適な列車は終着の会津若松駅へさらに下り始めた。

会津盆地へ下りて土地が開け集落が点在している中を時速90キロで快調に走る。 右に新津駅からの線路が合流して並走し、国道49号線をくぐればやがて右手に扇形庫が見えてくる。 戦前に作られた扇形庫だが収容は15線あり、今となっては梅小路機関区の20線と津山機関区の17線につぐ大きさではないだろうか、ここの隣になる新津機関区が14線で(会津若松が)1本勝っていると昔聞いた覚えがある。 その新津とここ会津若松の転車台は下路式という珍しい方式で、梅小路や津山などほとんどの転車台が上路式なのは積雪量に関係するのだろうか、下路式の方が転車台坑が浅い。 転車台の線路が桁の上にあるか下にあるかの違いで鉄橋でも上路式と下路式がある、例えば御茶ノ水駅や神田川にかかる聖橋という道路橋が上路式でその下にかかる丸ノ内線の鉄橋が下路式である。 C11が去ってからはしばらく気動車車庫となり時々強力高速除雪車DD53がやってきて異彩を放っていたがそのDD53がC57に代わって「ばんえつ物語」を牽引したのもはるか昔のこととなり、そのC57も鉄橋流出で運休となり来れなくなってしまっている。 只見線も復旧し、やがて磐越西線も復旧したらC58がやってくることを夢みているうちに、会津若松駅1番線に定刻10時31分到着した。

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城端線 (城端-高岡,342D)

令和4年5月2日、高岡駅から339Dに乗り城端駅に着いた。 終着駅なので、ここで行き止まりだが相対式ホームとなっていて機回しが出来るようになっている、しかしさらに有った側線や転車台はすでに撤去されている。 委託された駅員さんがおり乗越しの清算をして入場券を記念に購入し、ここからの乗車券は高岡城址にあるC11を見学する可能性を考え高岡駅までと同一料金の氷見線越中中川駅までとりあえず購入する。 観光協会が駅舎にあるが、鉄道を利用する観光客がどれほどいるのだろうか。

これから乗車するのは、342D高岡駅行き気動車である。 高岡駅←[キハ40-2137]+[キハ47-1029]→城端駅、という二両編成だ。 ちなみに、キハ40の4はエンジンが一つで0が両運転台の車両を表す、キハ47は同じように4がエンジン一台で7は片運転台を表すが、キハ48が先にあったので47となった、9から5へ数字を順に減らしていくが9は試作車に付けられることが多いので48からはじまった、キハ48は片運転台でデッキ付きに対しキハ47はデッキが無く運転席後ろの座席は撤去され広場になっている。 これらキハ40系はエンジンが新型となったが車両が重く加速性能と登坂能力が劣るため、この城端線のような平野部を走る路線に向いていて、週末の富山駅直通運転では走行性能の低さから後続の電車に追われてしまうのではないだろうか。

高岡駅から常務してきた運転士さんが折り返し乗務するようで、キハ40の運転台で休憩しているが、ドアは開いているので、乗車する。 すでに、親子連れが乗っておられた、その男の子はとてもうれしそうで少し座っていると別の席へ移り乗り心地よりも窓から見える景色を確認しているようだ、それを笑顔で見つめているお母さんも良い表情をしていた。 やがて男性2人が乗車され、乗客6人で城端駅を定刻14時22分発車した。 ゴールデンウィーク期間中だが学校はいつも通りのはずで、高校生が乗ってくればかなりの混雑となるかもしれないと思い昼過ぎの列車で城端線を往復することにしたが、予想以上に空いていた。

住宅地を抜けて田園地帯を快調に走り、そのまま田んぼの中にある越中山田駅に到着(定刻で運転されたので個々の駅到着時刻は省く)。 単式の越中山田駅ホームに、さきほどのお母さんが見えたので男の子も降りたのだろう、たった一駅だけど鉄道の旅は彼にとってどうだったのだろうか、お母さんとの良き思い出の1つになることを祈る。 

砺波平野と呼ばれるこの地域は、散居村という集落を作らずに農家が分散していることで有名だが果たしてその通り、農家が田んぼの中に点在しているが、同じく有名な屋敷林に囲まれた家は見えなかった。 家が立ち並ぶようになり右カーブをして福光駅に到着した、ここは跨線橋のある相対式ホームで城端駅行きとの列車交換にて数分停車するうちに3人が乗ってこられた。 単式の東石黒駅に停まり、次の福野駅は相対式で別に待避線が1本あり除雪車が留置してあった、5人乗られて1人降りられた。 高儀駅は相対式の片側が廃止になり単式になっていた、続く東野尻駅も単式で乗降客は無かった。 平野部なのでさほどディーゼルエンジンがうなりをあげることもなく静かに田んぼの中を走り、住宅が増えてくると駅ということを繰り返してきたが、やがて大きな街にはいって砺波駅に到着、ここは橋上駅になっていて地方のローカル線の駅にしては立派で5人降りられたが代わりに大勢の乗ってこられて車内がにぎわってきた、列車交換にて先着していた対向列車が先に発車していった。

キハ40+キハ47、昭和から走り続けているこの車両はどちらも温暖地用だ。 ドア部にデッキが無いので冬季は寒くないのだろうか、半自動ドアとして開けっ放しにはしないのだろうど、冬の時期つまり積雪時に乗りに来て確かめたいものだ。 平野部だけしか走らないし、線路状態も悪くないようでかなりの速度を出しているが 老朽化しているのは間違いなく代替の気動車がJR西日本にあるかどうか。 

そして、油田駅(単式)。 日本でも新潟県などに油田があるが、ここ富山県にもあったのかと思うがこの油は菜種油の事らしく駅名も「あぶらでん」と読む、その富山県の油田駅からお一人乗車された。 春にはチューリップだけでなく菜の花も咲き誇るのだろうか。 戸出駅は相対式で4人乗車されてきたが、まだまだ空席が目立つ。 次の単式の林駅を出てしばらくすると、右手から貨物線の跡が近づいてきて数年前まで貨物列車が来ていた二塚駅に到着、相対式だが側線から分岐ではなく単線になって少ししてから分岐していたようだ。 

新高岡駅に近づくがまだ田園地帯が続き、やがてイオンモールが見えてきて、新幹線高架駅の脇にある単式ホームの新高岡駅に到着、新幹線開通で出来た駅なのでまだ新しい。 ここで富山駅まで新幹線を利用すればJRで通し料金になるが、全線完乗するためにあと1駅乗る。 新幹線の駅だが、城端線の新高岡駅は無人駅で単式ホームに切符の自動販売機があるためか列車では整理券がこの駅では出なかった。 ICOCAが使えるらしいのが、新高岡駅と次の高岡駅の間だけに限るようだ。 新幹線の高架下にある在来線ホームというよりも、新幹線駅の近くにある別の駅という感じがするし、新幹線の改札口までは結構な距離がある。 新幹線から乗り換えのお客さんが大勢乗ってきて座りきれなくなったのは、ゴールデンウィークだからか。

高岡駅の1番線に定刻15時17分に到着。 北陸本線が開業した為に今の高岡駅の所属は城端線ということになっているが、元々高岡駅は北陸本線よりも先に城端線が開業しているため城端線が1番線となるらしい、開業時はひとつの会社だった氷見線に乗り継ぐには7番線の一番遠いホームまで渡らなければならない、また線路はつながっているけれど簡単に城端線と氷見線は直通出来ず、一度旧北陸本線を富山方面へ行って、そこから氷見線への分岐まで金沢方面へ後退して氷見線へ入ることになる(城端線からの旧北陸本線への渡り線が、旧北陸本線から氷見線への分岐よりも富山駅寄りになってしまうため)。 直通運転するには、氷見線の線路を敷きなおして氷見線を1、2番線発着に替えれば出来るかもしれない、しかし古くなったキハを何とかする方が先のような気がする。

C11は別の機会として 高岡駅の改札を出て、Suicaで改札を入りなおして富山駅へ戻ることにした。